11月4日、民主党の小沢代表の突然の辞任表明。福田総理との3度の党首会談後、連立への拒否回答の2日後の出来事であった。7日の小沢代表の辞任撤回会見で国会内はひとまず落ち着いたように思えるが、国会と世論との意識に乖離は大きいようにも思える。
この連立構想の裏に読売グループ本社会長の“ナベツネ”こと渡辺恒雄氏が関わっていたといわれている。それが本当だとしたら、『与野党連立』や『小沢代表辞任撤回』などよりも重大な問題であると私は考える。また、それに国民のみなさんが事の重大性に気がついていないとしたら、これまた重大問題である。
マスコミの役割は、事実を可能な限り中立客観的に、自らの意見を含めて国民に伝えることであり、その点において、“表現や言論の自由”が守られている。しかし、マスコミのトップがシナリオを書き、政治家を動かすことはあってはならない。世論と政治を結びつける役割をマスコミが担っているからこそ、報道や分析は権力から自由に行われるべきなのである。裏を返せば、権力に直結する報道は、もはや報道(マスコミ)の域を超えている。
また、それに乗る政治家にも大きな責任があることも否定できない。渡辺氏を仲介とする政治家ラインが明らかになったことで、今や政官財の癒着に加え、政と報道の『政報の癒着』があることが露呈してしまった。
私は日頃、報道、特にテレビのワイド・ショー的政治討論に過度に政治家が出演することに否定的である。確かに国民と政治の距離を縮める効果はある。しかし、物事には限度がある。“過ぎたるは及ばざるが如し”である。皆さんもお気づきの通り、テレビに出る政治家はいつも同じ顔ぶれ。テレビ側は政治家を使い捨てにするつもりらしいが、政治家も知ってか知らずかわからないが、一時のPR効果を狙って出演する。コメンテーターも政治評論家は一握り。たいていは、政治家評論家か政局評論家である。
そろそろ、政治家もマスコミも、さらには国民も、この風潮を反省する時機に来ているのではないか。高瀬淳一名古屋外国語大学教授が小泉元総理の政治手法を論評する中で、今は「政治家がお茶の間の人気者を志すことが違和感なく受け入れる時代」であると書いている。彼は、「数多いニュースショーや政治討論ショーには真実を見極めたいという本来のニーズを上まわる勢いで、庶民受けを狙った娯楽が提供されている」とも言う。政治家は、見事なまでに、そのマスコミの目論見に利用され続け、マスコミやコメンテーターの世論形成に利用される。
政治家自身は、マスコミとの適度な距離をとり、はしゃいでマスコミに出演しないことが重要である。あわせて、国民は、テレビに出演する政治家を決してもてはやさないように心がけることも必要である。
前東京大学総長(現学習院大学教授)の佐々木毅氏は、その著『民主政治という不思議な仕組み』の中で、「政治報道や政策分析は、世論の内容を充実させ、それに必要な情報を伝える上で、民主政治のインフラ(基盤)です。煎じ詰めれば、それは一種の教育機能を持っています。」と言っている。その教育機能であるマスコミ(政治報道)が、権力と結びつき、政治家がそのマスコミの意見に振り回されている社会は、正常とは言えない。読売グループ会長の渡辺恒雄氏の動きが真実だとしたら、日本のマスコミと政治はともに危機的状況に陥っていると言っても過言ではない。(2007年11月12日)
2007年11月12日
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